被害者証言がなくともそれで慰安婦強制連行がなかったと言えない(産経新聞)

終わらぬ謝罪行脚
1992年(平成4年)8月、ソウル市内で開かれた集会。元従軍慰安婦、金学順さん(69)の前で、深々と頭を下げる日本人がいた。
「申し訳ありませんでした……」
太平洋戦争中、山口県労務報国会下関支部の動員部長だった吉田清治さん(79)だった。43年(昭和18年)から2年間、韓国・済州島で約1000人以上の女性を従軍慰安婦に連行したことを明らかにした「証言者」である。
渡韓したのは、全国で「贖罪講演」を続ける吉田さんが、従軍慰安婦たちに謝罪するためだった。
「私の行為には、すべて犠牲者がいる。私が死んでも、彼女たちへの謝罪は終わらない」
吉田さんの証言では、最初に慰安婦を連行したのは43年5月。当時、労務報国会の会長だった山口県知事から徴用業務命令を受け、9人の部下とともに済州島に渡ったという。
「翌日から『慰安婦狩り』に着手し、軍用トラックに分乗して集落を回った。泣き叫ぶ女性の腕をつかみ、民家から路地に引きずり出した」
約1週間で徴用した慰安婦は205人。船で釜山に集め、関釜連絡船で下関に連行したという。
約20年前、吉田さんは加害者の立場から初めて口を開いた。韓国政府は92年7月、挺身隊問題実務対策班の中間報告書をまとめたが、そのなかにもこの証言は記載されている。
しかし、吉田さんの証言が明らかになるにつれ、その信ぴょう性に疑問をとなえる声があがり始めた。証言を裏付ける被害者側の証人が依然、現れないからだ。
93年(平成5年)、韓国挺身隊問題対策協議会共同代表の尹貞玉さんが済州島で行った従軍慰安婦の実態調査では、島民は一様に口をつぐみ、尹さんは「今後長期的に真相究明の手段を講じる必要がある」と結論付けた。
が、被害証言がなくとも、それで強制連行がなかったともいえない。吉田さんが、証言者として重要なかぎを握っていることは確かだ。
吉田さんは93年8月、「挺身隊国際援護会」を結成、韓国の元慰安婦たちに医療費を送る活動を始めた。
儒教精神の強い韓国で、慰安婦だった過去を語ることがどれほど勇気のいることか。それが、慰安婦問題の現実なのです」
 
●強制連行● 戦時中の強制連行による朝鮮人労働力の動員は、1939年(昭和14年)ごろからの「募集」方式に始まり、42年(昭和17年)には朝鮮総督府内に置かれた朝鮮労務協会を運常主体とするより強制的な「官斡旋」方式に移った。戦況の悪化などで労働力不足が深刻化した44年(昭和19年)には朝鮮にも国民徴用令を適用し、朝鮮人を自由に連行するようになった。労務者として日本に連行された朝鮮人は少なくとも110万人といわれている。

上記は、1993年9月1日産経新聞に連載された『人権考』の全文である。これは、産経新聞執行役員平田篤州の大阪時代の記事である。そしてその連載は、第一回坂田記念ジャーナリズム賞を受賞した。