政府と米軍、口では平和国民には銃口(集団的自衛権)

柵越えたら「デモ隊射殺」 砂川闘争 元米兵デニスさん証言

2014年5月8日 朝刊

 
デニス・バンクスさんが米軍立川基地を警備した1956年10月13日に起きたデモ隊と警官隊の衝突。「流血の砂川」と呼ばれている(砂川を記録する会提供)

 アメリカン・インディアン運動(AIM)のリーダーとして知られるデニス・バンクスさん(77)は、半世紀以上前の米兵時代に東京都砂川町(現立川市)の米軍立川基地拡張をめぐる砂川闘争の警戒に就いた際「デモ隊がフェンスを越えたら射殺しろ」と命令された。デニスさんが市民団体に体験を語った映像が今秋、初公開される。安倍政権の強引な集団的自衛権行使容認論のせいで、砂川裁判に注目が集まる中、貴重な記録として注目を集めそうだ。 (阿部博行)
 デニスさんは、十八歳だった一九五四年から三年ほど米軍横田基地(東京都福生市など)に勤務。五六年十月十一日から十三日まで三日間だけ、近くの立川基地の警戒に駆り出された。周囲の拡張予定地には、農地や宅地を奪われまいとする農民と支援の労働者、学生らが国の測量調査を阻止しようと集結していた。
 早朝、上官から任務の説明があり、仲間の軍曹が「デモ隊が柵を越えて基地内にやってきたら、どうしますか」と質問すると、上官は「銃で撃て」と命令した。軍曹が「撃って、けがをさせるのですか」と聞き返すと、上官は「撃ち殺すということだ。撃ち殺せ」と答えたという。デニスさんは映像で「戦争でさえ一般市民を銃撃することはないと知っていたので、大変驚いた。そんな命令には従えないと思った」と振り返る。
 三日間は、デモ隊が柵を越えてくることはなかった。だが十月十三日にはデモ隊と警官隊の双方合わせて千人以上が負傷し、新聞などで「流血の砂川」と報じられた衝突があった。
 デニスさんは、農地に座り込んだりスクラムを組んだりした労働者と学生、僧侶たちが警官隊に警棒で殴られ硬い靴で足蹴(あしげ)にされる場面を目の当たりにした。「あれ以来、砂川を忘れたことはない。私の人生にとって(人権運動の)大変重要な始まりだった」と回想する。
 砂川闘争では翌五七年七月、デモ隊が柵を倒して基地内に立ち入る「砂川事件」が起きた。逮捕・起訴された土屋源太郎さん(79)=静岡市=は「警官隊の背後に、機関銃を積んだ米軍のジープ型の車が二台出てきて、銃口を向けてきた」と話す。デニスさんの証言と合わせると、米兵の銃弾で犠牲者が出る可能性もあった。
 デニスさんは二〇〇八年十月、自身のドキュメンタリー映画「死ぬには良い日だ」の撮影のため、五十二年ぶりに立川市砂川町を訪問。地元の市民団体「砂川を記録する会」の星紀市代表(70)がインタビューして約三十分の映像を保管していた。
 最近、安倍政権集団的自衛権の行使容認の根拠として砂川事件最高裁判決(五九年)の一部を引用している。こうした中、当時の実態を広く伝えようと市民集会での公開を決めた。星さんは「日米安保で平和を守ると言いながら、農地を奪い、市民に銃口を向ける米軍と、それに協力する日本政府の姿勢をあらためて問いたい」と話す。
<砂川裁判> 米軍立川基地拡張に反対するデモ隊が基地内に入り、7人が日米安全保障条約に基づく刑事特別法違反罪で起訴された砂川事件東京地裁は1959年3月、「米軍駐留は憲法9条違反」として無罪とした。最高裁は同12月、安保条約など高度な政治性を持つ案件は裁判所の審査になじまないとして地裁判決を破棄。判決は「わが国が存立を全うするために必要な自衛のための措置を取り得ることは国家固有の権能の行使として当然」と自衛権に触れている。
<デニス・バンクス> 米国先住民の公民権回復運動のリーダー。反戦脱原発、環境保護を訴える市民運動「セイクリッド・ラン」(聖なる走り)を提唱、広島県沖縄県を訪問し、北海道のアイヌ民族とも交流。親日家で愛知万博ではセミナーを開催した。

5月8日東京新聞